大脱走

脱出不可能と言われるドイツの誇るある収容所。英米空軍の男たちが、森へ向けて三本の穴を掘り、捕虜全員の脱走をはかろうという大胆な計画を遂行してゆく前半と、脱走後、次々と捕らえられるハラハラの逃走サスペンスが見もの。

中でもマックィーンが国境線を疾走するシーンは映画史に残る名シーンだと思う。

マイライフ

1993年のアメリカ映画。

広告代理店を経営する主人公が、末期がんの宣告を受ける。
妻のお腹の中に宿る息子に対し、メッセージビデオ撮影を始める。

そして仲の悪かった父親との和解、というテーマもある。

余命いくばくもない告知をされた時、人は想像を絶する様な絶望に襲われるだろう。

そんな時、病院での医師や看護師のふるまいに、本人も家族も救われる事は多い筈。

そうした素晴らしいスタッフが居る病院でこそ、働きたいと思える看護師の人は沢山居るだろう。

看護師 好条件等で調べてみるのも良い考えだ。

 

 

1963年のヒッチコック映画、鳥。

ペットショップに注文した九官鳥を受け取りに来たメラニー(ティッピ・ヘドレン)は同じく来店したミッチ(ロッド・テイラー)から、つがいの鳥の事を聞かれる。店員と間違われたメラニーはついいたずら心で応対する。

ミッチにふと興味を持ったメラニーはミッチの車のナンバーから名前や住所を調べる。翌日ミッチが気にしていた鳥を購入すると早速アパートに向うが、隣人から週末は市の北方のボデガ湾で過ごしていると聞くやいなや、車をすぐに走らせるメラニーだったが。

小さな街を、鳥の大群が襲ってくる事を想像すると、真の恐怖を感じる。

それにしても、ストーリー設定が何故こうなっているのか不思議だ。

メラニーとミッチの出会いにしても偶然、という事になる。
襲撃されてただ逃げまとう人々を通して、恐怖を体現させるのが主目的か。

ロッキー2

ロッキーの続編、ロッキー2。1979年のアメリカ映画だ。

アポロからの再戦要求がくる。
前回の試合でかろうじて判定勝ちし、防衛したものの世間は無名のチャレンジャー、ロッキーを高く評価した。
これでは王者のプライドが許さない。

再試合はしないと決めていたロッキーだったが、なかなか仕事はうまくいかない。

その様な状況の中、執拗なアポロの挑発にトレーナーのミッキーと共に再びトレーニングに挑む。

妻のエイドリアンは再戦に反対していたのだが、過労と心労により倒れている中、ロッキーに「勝って」とつぶやく。
それでようやく迷いが消えたロッキーは、アポロに再度挑戦し、チャンピオンになるのだ。

続編というのはどうしても賛否両論になりやすい。
ロッキーがチャンピオンベルトを巻いてしまうと、前作の感動も薄れる原因になってしまう。
勝利より尊いものがある、という観点からすると、なかなか難しい。

終着駅

1953年のアメリカ映画。

メアリーは7歳の娘がいる人妻で、ローマでジョヴアンニと恋に落ちる。

しかし、家族を思うジェニファーはモンゴメリーに別れを告げずに、ローマの駅からミラノ経由でパリに向かおうとしている。そこから空路でアメリカに帰国するつもりだ。

あわてて家路を急いだので、荷物をおいのリチャード・ベイマーに駅まで持ってきてもらおうとした。午後7時出発の汽車に乗ろうとしたときにジョヴアンニが現われる。汽車に乗ろうとしたが、別れを惜しみ二人は駅でたたずむが・・・

最初から最後まで駅でのシーンというのが非常に斬新。

列車に乗って別れてしまえばそれまでなのに、ひたすら会話で引っ張るところが凄い。

未練がましさが痛々しい映画だ。

また、駅だけあってバックは人々が次々歩く慌ただしさ。静かすぎないところに、大きなリアリティがある。

バニシング・ポイント

1971年のアメリカ映画。

新車の陸送の仕事をしている男コワルスキーは、請け負った「白の1970年型ダッジ・チャレンジャー」の陸送で、翌日の午後3時までの15時間でコロラド州デンバーからサンフランシスコまで到着させるという賭けをすることになった。

途中、スピード違反で警察に追いかけられ、派手に騒ぎを起こして振り切ったことを地方ラジオ局の盲目の黒人DJ・スーパー・ソウルに放送されたこともあって、他愛のない賭けは思わぬ大騒動へと発展する。

かつては海兵隊隊員であり、レースドライバーであり、警官だった事もあるコワルスキーは、数々の障害が降りかかろうと、道々に追跡してくる警察を蹴散らし、ただひたすら車を走らせ続ける。

そんな彼に対して、スーパー・ソウルを始め、共感する者たちの輪が広がっていき、ある者は協力し、またある者は声援を送った。その有様を苦々しく思う警察は、威信にかけてコワルスキーを止めようと異常なまでの検問をひく。しかし、コワルスキーは自らの消失点(バニシング・ポイント)に向かうかのように、アクセルを踏み続ける。

アメリカの広大さを、疾走感溢れる映像で語っている。
ただひたすら車で爆走するだけなのに、あの迫力は何なのだろう。

理由もあってない様なもの。大地の大きさに比べたら、理屈なんてちっぽけなもの。

他愛もない事から、こんなに大がかりなある意味では現象とも言うべき状況を生み出し、最後は破滅へと向かっていく。
アメリカン・ニューシネマの魂がここにあるのだろう。

レイダース 失われたアーク

1981年のアメリカ映画。インディージョーンズのシリーズ一作目だ。

1930年代、第二次世界大戦勃発前。ナチスドイツは、兵器利用のため、伝説の<聖櫃(アーク)>を探し求めていた。

対するアメリカは、考古学者インディ・ジョーンズ(ハリソン・フォード)に調査を依頼。<聖櫃>発掘のヒントとなる杖のメダルを手に入れようと、彼は恩師の娘だったマリオン(カレン・アレン)に会うが、ライバル学者ベロック(ポール・フリーマン)とナチスの影が、既にエジプトに忍び寄っていた。

インディーは教授という事で、ヒーロー然としていない所が風変わりで面白いと思う。

二作目以降はエンターテイメントとして、明るい雰囲気を持っているが、この一作目はアクションに重きを置き、怪しげな空気を醸し出している。

黄金狂時代

1925年のチャップリン映画。

雪深い山に金鉱を捜し求めてきた一人の金鉱探し・チャーリー。猛吹雪に難渋した上、転がり込んだ小屋にはお尋ね者のブラック・ラーセンがいた。

やがて、同じく猛吹雪で転がり込んできた金鉱探しのビッグ・ジム・マッケイと避難生活を送ることとなる。寒さと飢えがピークに達し、ビッグ・ジムはチャーリーがニワトリに見える始末。

やがて靴を食べる生活まで始めた。

ビッグ・ジムと別れ、麓に出来た新興の街にやってきたチャーリーは酒場で出会ったジョージアに一目ぼれ。最初はチャーリーの単なる片思いであったが、ジョージアも粗暴なジャックに愛想を尽かし、チャーリーに少しずつ思いを寄せるようになる。
酒場で偶然再会したビッグ・ジムと艱難辛苦の上、ついに金鉱を探し当て百万長者になったチャーリー。帰りの船上でジョージアと再会。めでたく結ばれる。

靴を美味しそうに食べるシーン、飢えからくる悲惨さをも笑いに変えてしまう、正に天才チャップリンの真骨頂だ。

オーバーザトップ

1987年のアメリカ映画。シルベスター・スターローン主演。

主人公のリンカーン・ホークは義父との確執から10年前に妻と息子を残して家を出た。しかし妻が重病との知らせを聞き、義父に内緒で息子と再会し妻の元へと向かう。だがその直後に妻は死に、再び息子も義父の元に。その様な状況の中、ホークはかねてから熱望していた世界アーム・レスリング選手権への出場を決める。息子への思いをぶつけるように、ホークは世界の強豪たちと死闘を繰り広げる。

アームレスリングという、地味な競技の中で、よくここまで主人公の葛藤を描けるものだ。

子供を想う気持ちと、闘う事の崇高さ。

息子が不良とアームレスリングをして、負けて逃げ出そうとする所をホークが諭すシーンは泣けてくる。

駆け引き無しのまっすぐさが感じられる。

スターローンだからどうこう、ではなく映画としてキチンと評価されて良い内容だ。

サミーヘイガーが歌う「オーバーザトップ」も完璧にこの映画にハマっていて素晴らしい。

巴里祭

1933年のフランス映画。

フランス革命記念日の7月14日。前夜祭の中、タクシーの運転手ジャン(ジョルジュ・リゴー)と、花売り娘のアンナ(アナベラ)は互いに惹かれあうが、再会の約束を果たせぬまま、すれ違いが続く。邦題の『巴里祭』は造語であり、適切な表現のなかった配給会社の苦肉の策だったが、映画は国内で大ヒット。以後フランス革命記念日が「パリ祭」と呼ばれるほどに浸透した。

巴里に残ったのは生活が丸見えの庶民ばかり。そして派手に巴里祭を祝う。そういう中、二人の恋人が本当の愛かどうか、試されてるかのように別れ、再会し、結ばれる。

パリの下町風情漂う映像感は、非常に臨場感があり、心地よい映画だ。